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2022/6/18 日光3 戦場ヶ原
<速報版>
1) おはようございます。戦場ヶ原なう。ここが中核地。だいぶ湿地が森林化の過程にある。朝からおお賑わいの戦場ヶ原。この中核地は木道工事のため通行止めで、引き返すか大きく迂回するしかない。そのため人は避けたようでここだけ静かなのであった。(6/18 9:51)
2) 今日も日光を色々歩いたが、最後の目的地です。旧英国大使館別荘。元々アーネスト.サトウの別荘です。窓から見えるは中禅寺湖。日本近代のインバウンドは日光から始まった。日本の近代登山も高山植物もサトウの名が刻まれる。(15:23)
3) これは、サトウの別荘のテラスから。正面は白根山。(15:24)
>淡い青〜緑のグラデーションはこの時期だから一層綺麗なのでしょうね。モノクロでも又別の趣がありそうです📷
曇天で霞みがかるどんより天気で、普通は写真に良くないはずですが、スマホでいい加減に撮ったこの写真でも、思ったより雰囲気出ているかも。アーネスト サトウが選んだ立地のお蔭なのでしょうか。どんな天気でも絵になりそうです。(20:32)
4) 2泊3日の日光の山旅、帰途についています。東武の普通列車。最近出た日光MaaSのデジタルフリー切符(バス付)は東京方面から激安なのでお試しあれ。梅雨なので雨の中1日温泉+戦場ヶ原のんびりでいいやと県民割予約。このMaaSを知り天気予報も良いとあり、予定を次々と追加、宿も追加し盛り沢山の旅となりました。日光は自然も歴史も奥が深いと改めて思います。最後の〆がこのアーネスト・サトウの別荘。幕末から維新を目撃した英国外交官。中禅寺湖をワーズワースの湖水地方のように愛した。日本の近代登山のパイオニアでもある。この別荘にイザベラ バードを招いたとも。バードは中禅寺湖は箱根の芦ノ湖なんかとは比較にならないほど美しいと言ったとか。サトウは日光を世界に発信。欧米の別荘地になった。そんな展示だった◼️サトウの愛した日本とは何だったのかと思う。その日本は今はどうなったのかとも。サトウは政治、文化、山岳、植物など多くの著作を残している。読み解いてみたい。(19:00)
5)6)  そして武田久吉『尾瀬と鬼怒沼 』という本の武田さんがアーネスト サトウの息子だったことを知った。尾瀬を守ったひと。サトウを継ぐということ。写真は中禅寺湖の別荘をサトウの遊覧船から写す。ちなみに奥日光から白根山に登り、尾根を行くと鬼怒沼、そこから尾瀬はすぐ近くだ。(19:09)  
→そして7月14日から鬼怒沼への山旅を行うこととなる。

<読書日記>
荻原延壽「遠い崖14 離日」(2001/2008)
14巻をやっと読み終えた。第1巻の感想を書いたのが625日だから、そこから数えて4か月もかかっている。この間、他の本はほとんど読んでいないので、この本にかかりっきりだったわけだ。もっとも、この間は読書から離れ、山旅に夢中になっていた時期に重なるのではあるが。ある意味、アーネスト・サトウに触発されながら、彼と共に旅をしていたともいえる。そもそも彼を知ったのは、日光の山旅で618日に中禅寺湖畔の「旧英国大使館別荘」に立ち寄ったのがきっかけだった。ここは、もともと英国大使のサトウの別荘で、サトウの業績を展示した博物館にもなっている。幕末に19歳で英国大使館の通訳として来日し、39歳まで英国大使館に勤務、その後、52歳で英国の日本大使に就任したサトウの、外交官/日本学(日本語、国学)の学者/登山旅行家としての業績が、その息子の植物学者・武田 久吉(尾瀬と鬼怒沼の紹介者)と併せて紹介されており、こんな人がいたのかと驚愕したのだった。私は、日光の山旅のあと勢いづいて、鬼怒沼、尾瀬をはじめ山旅ばかりしていたが、サトウのことが頭から離れることはなかった。
■そんなわけで、第4巻までは一冊ずつ感想を書いていたが、その後は山旅を優先して書かずにいた。いずれ遡って書いていきたいが、ここでは全14巻を読み終えての感想を記しておく。本書は、複数の要素が見事に融合した稀有な<大河歴史書>である。第一に、サトウの日記のほか、著者自らが調査収集したサトウの手紙も引用しながら、かつ同時代の英国の外交文書と日本の史料により丁寧に引証した実証的な歴史書として秀逸であるここと。幕末維新の外交史、特に英仏米から見た日本史として、幕末維新史に新たな光を当てた基本文献であろう。
第二に、サトウの評伝としての側面。これには外交官としてのサトウと個人としてのサトウ2つの側面がある。外交官としては、サトウの仕えた英国の日本大使(特にパークス)との確執をとおして英国の真意がわかるし、個人の側面としては、日本学(日本語、国学)の学者としてのレベルの高さだけでなく、サトウの人生の綾まで読み解く。サトウの日記はどちらかというと感情を抑した淡々とした記述が多いが、推測を交えた眼光紙背は鋭い。惜しむらくは、サトウの日記のうち西洋音楽に関する記述は多く紹介されている一方で、多く登場しているという登山や植物の話は著者の専門外という弁解のもとで大幅にカットされている。
第三に、幕末維新のキーマンである西郷隆盛と勝海舟と大久保利通の思想と行動に、多くの紙面を割き、幕末維新史への理解が深まることだ。とりわけ印象に残ったのは、同世代のサトウと西郷隆盛の人生と思想を重ね合わせていることだ。歴史の偶然というのは恐ろしいもので、サトウと西郷隆盛は幕末期と西南戦争の重要なタイミングでたまたま出会っている。幕末期サトウは外交官としての立場を半ば逸脱し(それを黙認した英国の凄さ)薩長の討幕派に接近。若き西郷隆盛や伊藤博文と個人的な親交を結んでいる。幕末史における英国の影響力はその裏側でサトウの活躍が光っていたことがよくわかる。
西南戦争での西郷隆盛との出会いは戦争の真っただ中だ。謎の多い当時の西郷についての貴重な証言ともなっている。西郷もサトウも、幕末で燃え尽き、維新後は「無為に日を送っている」という感慨で一致するという見立てだ(13p219)。それは、維新後の日本史への違和感とも言えるだろう。西郷はあったかもしれないもう一つへの日本への手かがりになるかもしれないということが示唆される。大久保利通は、サトウとの接点はほとんどない。しかし大久保の卓越した外交の成果である北京交渉(11)に多くを費やしているのは、恐らく西郷との対比のためだ。西郷・大久保の両者が日本にとって必要だったという、著者の歴史家としての本領を感じた。
■このように全14巻は、サトウの外交官+個人の人生を縦軸に、幕末維新の外交史にとどまらず、幕末維新を動かした政治家(ときにサトウから離れ)の思想と行動をも描写した、一大絵巻となっている。<大河歴史書>と称する所以だ。残念ながら、本書はサトウが39歳で一旦離日する明治17年で終わっていて、日清戦争やサトウの大使としての活躍には触れられていない。著者はサトウの<修業時代>がここで終わったからだとするが、その後、国会開設-日清戦争と続く日本も同じことなのだろう。それにしても、この激動の幕末維新の20年間のサトウの人生のなんと豊かなことだったろう。激動の時代がサトウを産んだのに違いない。その豊かさは、外交官としてだけでなく、特に維新後がそうだが、学者(国学)として、また本書ではかなり割愛されているが登山旅行家としての豊かさである。サトウは、暇を見つけては山旅ばかりしているのだ。それも1月とか長期の山旅も多い。日本を愛したサトウは、何より日本の山を愛したのかもしれない。先に「サトウのことが頭から離れることはなかった」と書いたのは、サトウも山旅ばかりしたていたのだから、私もという自己弁護の意でもある。
1976年から1990年まで朝日新聞に連載。1999-単行本化。2007-文庫化。(2022/10/15)
 

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